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堂ヶ島から下田へ |
伊豆の旅・下田/了仙寺
伊豆最南端の石廊崎。その灯台へ行く予定が入っていたが、石廊崎灯台へはかなり歩かなければならず、時間の都合で、道路沿いの愛逢岬の展望台からの見学でここは終わりとなった。ここからの眺めも十分すばらしい。 |
愛逢岬と記されている。 | 拡大 |
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石廊崎を出て下田に向かう。下田は伊豆の南部に位置し、やはり温暖で美しい海岸線を持った土地だ。三島から堂ヶ島、そして石廊崎を経由して下田、伊豆急行での帰りのコースを後から地図で眺めてみると、おおよそ伊豆半島を一週したような感じになるが? 下田は、歴史教科書にもかならず登場する土地だ。1854年(嘉永7年)日米和親条約が締結される。アメリカの全権は東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー。下田港は即時開港となり、長い鎖国制度が崩壊する。そしてその後、下田の了仙寺で、条約の細部をさらに取り決めた下田条約が締結される。了仙寺はアメリカジャスミンでも有名。初めは青紫でその後白色になる。大変甘い香りを放つそうだ。5月には境内いっぱいに咲き誇る。 どうしてアメリカは日本に開国を迫ったのか?ヨーロッパの列強国は産業革命以後、輸出拡大を必要として、インド、東南アジア、中国へと進出していった。アメリカはそういった植民地獲得の競争に遅れをとった。その為、アジアに拠点を設け、急いで太平洋航路の確立しなければならなかった。燃料や油、食料を必要とした。また特に産業革命以降、工場やオフィスのランプの明かりとなる鯨油を必要とし、太平洋で捕鯨が盛んに行われた。その拠点となる場所が欲しかった。 |
了仙寺へ | 拡大 アメリカジャスミン? |
拡大 了仙寺 本堂 国指定史跡 ジャスミン寺とも呼ばれている。 |
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拡大 ペリー陸戦隊了仙寺調練の図(1856年) |
拡大 唐人お吉を乗せた籠。 |
了仙寺の参道はぺーリーロードと呼ばれ、ペリーが上陸後、了仙寺まで歩いた道だ。了仙寺から下田公園までの500m程の通り。平滑川に添って石畳と柳並木が続き、両サイドに古い建造物が並ぶ。大正時代か昭和初期を思わせるロマン溢れる情緒いっぱいの通りだ。 ペリーロードを出て車で伊豆急下田駅へ向かう。列車に乗るまでまだかなり時間がある。もう昼ということで、近くの割烹料理屋を選び、金目鯛のしゃぶしゃぶと煮付けを食した。それと昨日さんざん飲んだ日本酒を再び。そして唐人お吉の菩提寺宝福寺へ。 |
アロエが多く植えられている。 |
拡大 柳並木と石畳。 |
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どこか懐かしい八百屋さん。 どこから来たのと声をかけられた。 |
拡大 格子模様のなまこ壁が見える。 |
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拡大 懐かしいさいっぱい。なんの店先? |
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拡大 巨大レモン。 |
下田といえば金目鯛。 |
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