高崎市 旧井上房一郎邸 | 富岡市 富岡製糸場

富岡市 富岡製糸場へ


上信電鉄で
 高崎から世界遺産「富岡製糸場」へ行くには、上信電鉄に乗り、上州富岡駅で降りる。およそ乗車時間35分。電車は2両編成の小さな電車である。まさしくローカルな電車で、かなり古くさく、よく揺れる。しかしその揺れが結構気持ちよい。居心地のよい電車だ。ちなみにこの電車に乗るには、切符を購入する必要がある。今現在、ICカードは使えない。改札は切符用のはさみか判子であった。とてもとても懐かしい。 
 上州富岡駅を降りると、駅前の静かで広い空間に戸惑う。さてどちらへ行こうか。しかし駅には地図があり、また案内板もあるので、たやすくルートがわかる。(観光客らしい人に付いていけば簡単です?)街は世界遺産の登録されたことを慶ぶメッセージで溢れている。 
上新電鉄 列車
いろいろなデザインの列車がある。
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車内。一般の方の絵手紙等
作品が展示されている。
上州富岡駅 駅前風景。 お店にかけられた歓迎の看板。
あちらこちらに見られる。
上画像 上信電鉄往復切符 入場券も込み。楽でお得。
下辺左の切り込みに注目。懐かしい。


明治の先人を思う
 富岡製糸場に向かう電車の中で、歴史に思いを馳せた。徳川幕府が外圧から開国に向かい、国は大きく混乱をまねく。列強諸国により、何時植民地化されるかわからない。早く強い国をつくらなければならない。(富国強兵) それには外貨を稼ぎ、国を富ませなければならない。(殖産興業) 明治初期においての国造りはどれだけ困難を極めたことか。(日本は貧しい国だったのである) 当時の指導者は、国を思い、どれだけの気概を持って事に当たったことか計り知れない。明治の政治家は、紛れもなく今の経済発展を遂げた日本国の礎を築いてくれた。その方々に敬礼!「富岡製糸場」は「坂の上の雲(求める近代国家)」のひとつの姿なのだ。



富岡製糸場に到着
 上州富岡駅から製糸場までは約15分ほど。途中は落ち着いた町並みだ。そこに観光地らしいが抑制のきいたにぎやかさが加味されて楽しい。富岡製糸場の入場料は1000円と高めなのだが、これだけの施設を維持するのだからしかたないと思ったが、なんと400円分の街で使える商品券(協賛店のみ)がもらえる。町の発展もともに考えているのだと感心した。製糸場では一人200円でガイドの解説が聞ける。音声ガイド機も貸してもらえ、ガイドさんの声を鮮明に聞ける。約50人に一人のガイドさんが付く。気楽に申し込める。これは絶対おすすめ。
券発売所 
検査人館
ガイドさん




富岡製糸場 概要
 富岡製糸場は、日本の主な輸出品である※1生糸の品質の向上(当時粗悪品も多かった)と大量生産を可能にするため※2富岡市に建設された。操業は、明治5年(1872)。全国から工女を募集、そして※3フランス人指導者を雇い入れ、器械製糸技術を学はせた。技術習得後はそれぞれの地元に帰り、指導者として活躍した。明治26年(1893)に三井家に払い下げられた。その後も、一筋に製糸工場として稼働した。その後三井家から片倉製糸紡績へ経営が移った。昭和62年(1987)に※4操業を停止(115年間創業)。現在においても建物、機械はほぼ創業当時のまま保存されている。

※1生糸の品質向上と増産・・・ ヨーロッパで蚕の病気が発生。大打撃を受ける。西洋諸国はアジアに品質の良い生糸を求めた。

※2富岡市がどうして選ばれたか。・・・広い土地が確保できる。・繭、良質な水が確保できる。・石炭が近くから採れる。・・・これらが適していると認められた。

※3フランス人指導者・・・ワインを飲むフランス人を、生き血を飲むと思いこんだようである。デマがとび、受け入れが大変だったよう。

※4操業停止・・・創業停止後、これだけの規模の工場が、保存され守られたことを大変ありがたく思う。富岡製糸場を守ってくれた企業の名は「片倉工業」。この企業なくしては、世界遺産登録はありえなかった。片倉工業さんは、昭和14年(1939)~平成17年(2005)まで民間最後のオーナーを務め、1987年操業停止後の18年間工場を守り続けてくれた。平成17年(2005)建造物一切を富岡市に寄贈した。
平成26年(2014)国宝に指定。


富岡製糸場 東置繭所
 富岡製糸場は日本初の本格的官営製糸工場であった。また世界最大規模の製糸工場でもあった。この下に掲載の「東置繭所」は、繭の貯蔵所、作業所、事務所として使われた。長さ104.4m、幅12.3m、高さ14.8m。堂々たる風格のある建物である。骨組みは木で、柱の間にレンガを積み上げている。(木骨煉瓦造) 当時、日本ではレンガがなかったので、釜を築いて作った。目地は漆喰である。この建物とほぼ同じ大きさ、形の「西置繭所」が平行して奥にある。明治時代初期に、にこれだけの規模の建築物を作ったことに驚かされるが、その建築物がさらにもう一棟あったということだ。国宝に指定された。
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左画像 中央のアーケード上部のプレート
「明治五年」は建物が完成して、操業開始の時期。




検査人館と女工館
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検査人館
生糸を検査するフランス人技術者の住居。
2階は貴賓室。重要文化財。
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女工館
工女に糸取り技術を教えるための
フランス人女性教師の住居。
重要文化財。




操糸所
 繭から生糸をとるための工場。この施設は東置繭所よりさらに大きい長さ140mである。操業初期は、まだ電気での明かりがなく、自然光に頼っていた。そのため、光を取り入れるガラス窓が多くある。(その後電気照明はどうだったのか?わからない) また※1トラス構造という新しい工法が取り入れられ、内部は柱のない広い空間が確保されている。設置されている自動繰糸機は操業停止時期まで使われていたものがそのまま保存されている。国宝に指定された。

※1トラス構造・・・屋根をささえる木材を三角形に組み合わせることで強度を生み出す工法。
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操糸所外観
操糸所入り口の屋根。
屋根の鬼が見られる。
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操糸所内部
操糸所内部
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繰糸機。ビニールがかかっている。
現存する繰糸機の動作する画像。
(映像コーナーを撮影したもの)
ガイドさんに見せて頂いた当時の様子のイラスト。
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 トラス構造を採用。




診療所と首長館館(ブリュナ館)
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診療所
首長館(ブリュナ館)
指導者フランス人ポール・ブリュナの住居。
後に寄宿舎や工女のための夜学校となった。
重要文化財。


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