▼南部鉄器 オーブンパン25/こだわりやさん.com


南部鉄器の歴史
南部鉄器には二つの流れがある。奥州市(水沢)の南部鉄器と、盛岡市の南部鉄器である。二つの歴史は異なる。(両地区で生産されたものを南部鉄器と称している。)

奥州市(水沢)の南部鉄器
水沢羽田町の鋳物における歴史はかなり古い。今からおよそ900年前(平安後期)にさかのぼる。藤原清衡が豊田館(奥州市江刺区)に、近江の国(現在の滋賀県)より鋳物師(いもじ)を招き、鍋や釜を鋳造させたのが始まりとされている。その後、平泉全盛時代には、中尊寺の梵鐘、備品等を鋳造し、平泉文化創造の一翼を担った。
 南部鉄器は、江戸初期において、水沢 ・羽田町に定着する。伊達藩の保護を受け、日常品から、武具、砲筒、仏具と多岐にわたった。  

盛岡市の南部鉄器
 盛岡の南部鉄器は、約400年前より、南部藩主の保護育成のもと受け継がれ、今日に至っている。
  万治2年(1659年)京都から釜師の小泉五郎七清行が南部盛岡藩に召し抱えられ、湯釜を作ったのが南部鉄器のはじまりとされている。
 その後、土瓶のかわりに、鉄製の品を使うことを考案し(8代目藩主利雄の時代)、抹茶式の釜に口をつけ、つるをつけて試作したものが(3代小泉仁左衛門清尊による)南部鉄瓶のはじまりである。

どちらの地区においても、砂鉄、川砂、木炭、薪等が豊富に得られた。これが南部鉄器の発展に大きく寄与した。

南部鉄器のその後
仙台藩、盛岡藩の後ろ盾が明治維新によりなくなり、盛岡、水沢の南部鉄器は衰退していく。しかし皇太子(後の大正天皇)の東北視察(明治41年)の際、8代小泉仁左衛門清信が、茶の湯釜の製造を実演、説明し、それが新聞に掲載されたことから、にわかに脚光をあびた。また、展覧会での入賞なども復活に大きく寄与した。

昭和、平成の南部鉄器
 第二次大戦中は製造が禁止された。南部鉄器の職人は、わずか16人となった。終戦後は、アルミニウム製が主流となり南部鉄器は衰退した。
 
近年になって茶道具等の伝統工芸品の他、キッチン用品等実用的な調理器具が多く生産されるようになった。そして建築、インテリア、芸術作品等も生まれ、南部鉄器は活況を呈してくる。(昭和50年、国から伝統的工芸品第1号の指定を受けている。)さらにカラフルなもの、センスあふれる製品が登場。海外への輸出も増加し、国内を凌ぐ評価を得ている。(欧州の三つ星レストラン等でも使用されている)国内においても著名なデザイナーによる新たな南部鉄器が登場し、南部鉄器の新たな可能性に注目が集まっている。


盛岡市内を歩く
 盛岡市は岩手県のほぼ中央にあって、岩手県の県庁所在地である。人口は約30万人。歴史的建造物、神社仏閣等を多く有し、みちのくの小京都と呼ばれる。その盛岡は、今から約400年前、南部氏が盛岡城を築城し、城下町として発展したのが、現在の盛岡の始まりとされている。
                                 ウェブマスターの旅行記より
 盛岡駅  啄木新婚の家
 材木町の光原社  盛岡城の石垣
岩手山と北上川  岩手山と北上川  
 岩手銀行中ノ橋支店(旧盛岡銀行) 中津川 
左画像 盛岡冷麺 盛岡3大麺のひとつ。
後2つは、じゃじゃめん、わんこそば。



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