盛岡へ・・・ちょっと立ち寄り 「啄木新婚の家」

 東北新幹線「やまびこ」は、仙台から終点盛岡まで各駅停車となる。東京駅を出発。盛岡までは約3時間半かかる。すこしのんびりの新幹線である。東京の桜は完全に散ってしまい、葉桜となっているが、車窓から見える桜は、列車が進むにつれて、様子が変わり、福島あたりで満開となっている。そこから先へ進むと、満開を待つ様子。車窓からの風景は、まさしく生きた桜前線の案内板のようである。岩手に入り一ノ関駅あたりから、乗客の数はぐっと減り、さらに盛岡駅に近づくと、貸し切り状態という感じ。お昼ちょっと過ぎに盛岡に到着。1時に南部鉄器のメーカーさんが、駅まで迎えに来てくれるので、昼食はサッとすませ、ホテルのチェックインをする。本日は、メーカーさんと綿密な打ち合わせがある。・・・・・・・・・・・・
打ち合わせは、ほとんど休憩無く、夕方まで一気に行い、予定終了となる。夜はお楽しみお寿司屋さん。メーカーさんにごちそうになる。新鮮な魚介類が実に豊富だ。(盛岡は内陸なのに)飲み過ぎに注意。明日は工場視察である。



 盛岡市の中心部より水沢までは、東北自動車道を利用して、およそ1時間。この高速は、新幹線と平行に走っているようだ。高速から何度も新幹線の高架をみることができた。途中、インター出口に書かれた地名に目を向けると、「花巻」とあった。「ああここが、宮沢賢治の故郷か」。風景が急に親しみをもった。山々、田や畑、雑木林、点在する家屋が織りなす表情みていると、ここで暮らしてみたいという思いがちょっとわいた。 



 水沢インターを降りて、奥州市水沢羽田区に向かう。ここは多くの南部鉄器メーカーが集まっている。(南部鉄器は盛岡市と奥州市で作られている。)ここで、某メーカーさんの社長とお会いして、南部鉄器が製品になるまでのすべての過程を、現場を歩きながら教えていただく。溶けたオレンジ色の鉄を鋳型に流す工程は圧巻だ。また鋳型のバリ(はみ出した余分な部分)をきれいに取り除く作業に見入る。丁寧で、かなり手間のかかる作業だ。南部鉄器は、例えば「鍋」で見た場合、ステンレス製などと比べると、はるかに工程が多く、労力のいる仕事と感じた。



 Uターンで、盛岡にもどる。車中から見る岩手山がきれいだ。まだ雪をいっぱいかぶっている。メーカーさんの事務所に戻ると、ちょうどお昼。盛岡で最も人気のある冷麺の本店に出向いた。何度食べても旨い。食した後は、もう一度、事務所に戻り、盛岡駅まで送ってもらう。



 東京行きの新幹線出発まで、1時間半以上ある。ここはミニ観光しようということで、盛岡駅の旅行案内所に出向き、パンレットをもらう。往復の時間と見学の時間を考えると、そう遠くへ行くことはできない。そこでパンフレットから選んだのは「啄木新婚の家」。題名からして興味をそそる。駅からは20分ぐらいか。
 盛岡駅のメインストリートを進むと開運橋という橋に出会う。そこより一つ北側にかかる橋を通る。渡りきって、すぐ左に折れると材木町である。この名前のわからない橋は、北上川と岩手山を撮る絶景ポイントである。今日は空気が澄んでいて、川の両岸の緑地も映え、最高のロケーションだ。前回もここから写真を撮ったが、また撮りたくなった。今回は橋を渡り左に曲がらないで、まっすぐに進む。時間がないので、目的地まで迷わないで行きたい。進んで行くと、かなり大きめな案内板が目に入った。



 「啄木新婚の家」は、看板がなければ見過ごしてしまいそうな一見こぢんまりとした家である。しかし中に入ってみると、かなり部屋数は多い。さらに公開していない部屋もあるので、部屋数は結構あり、間口から受ける印象よりかなり大きな家だ。正面にはL字の縁側もある。当時としては豪邸の部類かもしれない?武家屋敷だったらしいが、豪商のような決して豪華な作りではない。屋根は鉄板葺きであるが、当時はそのような物はなく、茅葺きであったらしい。現在、鉄板にしてあるのは、消防法の関係であるらしいが、もっとも茅葺きにするには、相当維持費がかかるので、消防法がなくても無理なのかもしれない。ちなみに、ここの展示場は無料である。
  石川啄木は、教科書にのる常連。大変知名度の高い歌人、詩人である。いい機会であるので、その一生を簡単に調べてみた。啄木は明治19年、岩手県の生まれ。北海道(函館、札幌、小樽、釧路)や東京での印象が強いが、紛れもない岩手の出身である。彼は若くして文芸誌「明星」に掲載される。そして東京へ出る。しかし程なく帰郷。彼は、堀合節子という女性と結婚するのだが、啄木は自らの結婚式に出ていない。花婿のいない結婚式である。妙なことである。啄木は多方面に借金をし、遊興費にそれを使うなど問題が多々あったようである。結婚式であるが、式場がこの家であった。その後この家で、新婚生活を送るのだが、啄木の両親さらに妹も同居であった。この家には裏に小さい玄関があり、玄関前に2畳、そしてそこから続いて4畳半があり、小さな2部屋で生活したようである。困窮し、ここでの生活は3週間で終わりをむかえる。 
啄木 節子の2畳の部屋
左手は裏手の玄関。
四畳半の書斎 屋敷の玄関と縁側
 石川啄木が私たちの記憶に残るのは、彼の薄幸な生涯を思ってしまうからか。・・・北海道を転々とする生活。困窮した東京での生活。不治の病。彼は結核のため、26才の若さで世を去る。あまりにも短い人生である。翌年、二人の子を残し、妻節子も同じ結核で亡くなる。

「一握の砂」と「悲しき玩具」。誰もが知る啄木の傑作である。

一握の砂より------- 

砂山の砂に腹這ひ(はらばい)

初恋の

いたみを遠くおもひ出づる日


 越谷達之助氏がこの詩に作曲。 歌曲 「初恋」。 日本歌曲として大変有名である。
心地よいリズム、叙情性、音楽性に満ちた啄木のこの歌。作曲者はその趣を至極自然に導き出している。この楽想しかありえないと思うほど、詩と曲が調和している。実に名曲だ。尚、歌曲では、次のように歌われる。

♪砂山の砂に 砂にはらばい
初恋の いたみを
遠くおもい いずる日

初恋の いたみを
遠く遠く ああ~
おもい いずる日


実際の歌唱である。
http://www.youtube.com/watch?v=egnepynHRws


 石川啄木は、どうも不埒(ふらち)なふるまいが多く、人間性にも問題があったようである。貧困も、浪費癖からくるもので、まっとうな生活を送っていれば、十分普通の暮らしはできたという関係者の記述が残されている。平凡な市民からみた石川啄木は、結果として、悲しい人生を歩んだのであって、死後の高い評価もそれを覆せない。しかし、啄木が自らつくりだしたであろう退廃的な日々が、優れた作品を生み出す契機になったということがあるかもしれない。啄木は、自らの自由意志で人生を送ったのであろうが、どこか芸術家としての人生を送るべく、神の意志が働いたと言いたくなるような生き様、一生であった。


 啄木 新婚の家を後にして、盛岡駅へ向かう。駅ではおみやげに「かもめの玉子」買い求めた。そして足早に新幹線のホームへ向かった。



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