鰹箱の思いで

年齢が30~40代の人に鰹箱を使ったことがあるかと質問するとほとんど「ある」と答えが返ってきます。なんで?と聞くと、「親へのお手伝いで」というのが圧倒的です。それは子供の頃の思いでのひとこまとして皆さん記憶しているようです。

親との絆の象徴であるかのように、やさしい思いでとしてよみがえってくる鰹箱。私たちをほのかな郷愁へ誘ってくれます。鰹箱は、まるで子供へのお手伝いの専門道具だったのでは..

 たまたま車に乗っているときにNHKのラジオで、鰹節の話が、でていました。その内容は、こうです。(実際の話とちょっと違いますが)「母親の削る鰹節のシャリシャリという音と、あの香りで私たちは、目を覚ました。それはなぜか。それは、鰹節の香りの中に目を覚まさせる成分が入っているからだ。鰹節の香りには、人間にとっての快楽成分が含まれている。これは、残念ながら揮発性で、すぐ飛んでしまう香りだ。パックの鰹節は、当然大事な香りが抜けてしまっている。鰹節を朝、削り私たちがおきることは、自然の理にかなっていて、とっても意味があることだった。」と.・・・・・
鰹箱は、私にとって「お手伝いの道具」であり、ラジオで聴いた話は、成分の話と共に「目覚まし時計」でもあったのです。どうして鰹箱の風景は、思い出とともにあるのでしょう?

 話は少しずれますが、日本人の味を引き出すもとは、「だし」です。欧米の味は、うま味は「油」です。しかし日本も「だし」の文化を忘れ、ほとんど欧米に近づいたようです。またラジオで言っていた「香り」もしかりです。鰹節の「香り」は、快楽成分があり、朝その香り嗅ぐと、食欲が増進して、健康に良いのです。病院でも現在食事に香りを考慮した献立にして、病人の免疫力を高める試みが行われているそうです。

 鰹箱が思い出として、はっきり記憶しているのは、なぜか?郷愁と書きましたが、そう書くような、印象がどうしてあったのか?シャリシャリの音、木の木目、引き出しを引っ張って何度も中を確認したこと、刃を子供ながらに調整したこと、...
よく解らないのですが、一ついえることは、便利な道具、便利な製品(当然弊社でも扱っている分けですが)ができて、私たちは快適に暮らせるようになった分けですが、便利な道具は、その余剰時間を人に与えるが、結局さらにその時間を再生産の時間に使わせ(料理道具ではありませんがビジネスマンの携帯電話は再生産の例では)日常の生活を逆に窮屈にしてしまう面があると思います。生活での過程での「余韻のようなもの」を奪っている気がします。何気ない日常の中に、包丁を一心に研いでみたり、鰹節を削ったり、洗濯板で一心に洗ったりする行為(自らの手を足を使用して、原始的に近い道具を使う?)が、意識せずとも「生活の余韻」(音の消えた後に残る響き)として私たちの心に残っているのではと思うのです。抽象的でごめんなさい。

でも人は、科学は、技術は後戻りできません。過去に戻ることは許されません。
ですけど意識的に「生活に余韻を残す」道具達を入れて、意識的に無駄とも思える時間を使ってみるのもいかがでしょう。
美味しい物を食べさせたい!と思いながら少しだけ遠回りして....
                                 (M,M)  

▲鰹箱<かつお箱>のページへ