過去のエッセイ5
■■■のだめカンタービレ |
我が家の本棚には「のだめカンタービレ」のコミックが十数巻(全巻)並んでいる。小学6年生の娘が買いそろえたものだ。今でも、新刊が出るのをえらく心待ちにしている。 このコミックは今すごい人気で、各巻の総計が1300万部を超えたらしい。そしてこのコミックのさらにすごいところは、クラシック音楽を題材にしていることだ。比較的話題に上ることの少ないクラシックが題材となっていることを考えると、ことさらこの数字はすごい。今後、数字はさらに大きくのびるだろう。今回フジテレビでこのマンガがドラマ化された。底抜けに楽しいドラマの展開に、実際のクラシック音楽が流れ、2重の楽しさだった。その中で特に多く奏でられたのがベートーベンの交響曲7番。優れた交響曲だが、比較的私たちの耳にとまる回数の少ない曲だ。こんなリズミカルで楽しいベートーベン交響曲もあるのだと思われた方も多いと思う。そしてタイトルシーンに流れたガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」。初めて聞く子供達にとっては、すごく新鮮な曲に感じられたことだろう。ドラマの中では多くのクラシックが演奏され、BGMにも取り入れられた。このドラマによって、挫折しそうなピアノ練習を継続できた子供さん、クラシックをやってみようと楽器を始めた子供さん、クラシックに魅せられ、CDを買われた年配の方。多くのすばらしい影響を与えてくれたことは想像に難くない。笑いと涙の楽しいドラマを提供してくれたとこと同時に、クラシックの魅力を大いに伝えてくれたことに、感謝したい。 我が家でも、このドラマがある変化を与えてくれた。娘のピアノの先生もこのドラマのファンで、先生も影響されたのか、その中で演奏されたベートーベンの「ピアノソナタ 悲愴 第一楽章」を娘に勧めたからだ。堅苦しい?からかベートーベンを毛嫌いし、流麗な?モーツアルトのソナタばかり弾いている娘にとって、大きな変化だった。娘は、「のだめ」で演奏されたからか、予想に反して、嬉しいようで、たぶんかなりの難曲となろう悲愴の第一楽章を喜んで受け入れていた。私も影響を受けた。有名な2楽章はよく聞いていたが、あらためて第一楽章を聞くと、重くやるせない序奏。重い和音。どこか救いのあるやさしい美しいテーマの出現。そしてその展開。序奏とテーマが織りなす彩。あらためて、これがベートーベンなのだと、愚かしくも悟ったような気になった。モーツアルトにみられるような、ほとばしでる旋律と、軽やかに進行する音の流れ、美を創造する天才的な姿はない。それに代わって、感情と論理の激しいせめぎあい。そして完全主義的な音と構成への苦渋に満ちた挑戦者の姿があった。 娘はベートーベンをどう弾くだろう。私はまるでピアノ弾けないが、娘の練習を聞きながら、私の仮想演奏も仕上がっていく。娘とどこが違うだろうか。その前にベートーベンの人生を話して聞かせようか。「のだめ」のおかげで、音楽への楽しみが増えた。のだめのドラマ続編をぜひお願いしたい。 |
■■■音楽家族? | |
最近、よく小学6年生の娘のピアノ伴奏で歌を歌う。おもに歌曲やナポリ民謡などだ。これを聞くとなにか仲の良い親子、頬笑ましい様子を思い浮かべるかもしれないが、実際は違う。なぜなら有料だからだ。ピアノの前の壁には、でかい字で「料金表」と書かれた紙が貼られ、娘が決めた料金体系が威嚇するように並んでいる。初見で弾ける曲と難易度の高い曲では料金が違う。ピアノの脇には、貯金箱があって、そこへ歌い終わると、決められた料金を入れる。(まあ一応子供らしい可愛い?料金だ) しかしこれらは、彼女が機嫌がいいという付帯条件をクリアーして初めて受け入れられる。僕が彼女のピアノ練習にクレームを入れた時や見たいテレビの時間が近づいているときは、軽くパスされる。こちらがいつも弱い立場(歌いたくてたまらない)を見抜いての、ある種の嫌がらせだ。しかしきげんの良いときは、まったく違う。フェルマータ(演奏家の意志で適当な長さに音符を伸ばして演奏する)、リタルダンド(しだいに遅くする)、アテンポ(もとの速度にする
昔からの夢であった「娘にピアノ伴奏をしてもらう」というのは、一応かなった。しかし残念ながら、テレビのドラマにあるような美しい、ほのぼのとしたシーンはない。僕と娘は、性格も顔もよく似ている。僕は娘を、僕のコピーと呼んでいるくらいだ。似たもの同士には、相手の心を読めるという、まあ一応良好な関係を築くのにプラスになりうる面が存在する。しかしこれは時に「駆け引き」という実に美しくない状況をももたらす。昨日、娘にイタリア古典歌曲の定番「カロ・ミオ・ベン」の伴奏を依頼したが、IPodとかいう高価な音楽プレーヤーをクリスマスプレゼントにという要求を、同時にだされ、回答を要求してきた。・・・・僕も負けない。これを機会に、練習嫌いの娘のピアノ練習時間を増やしてみせる!! |
■■■四季の歌 |
四季の歌 作詞 作曲 荒木とよひさ 1.春を愛する人は 心清き人 スミレの花のような 僕の友だち 2.夏を愛する人は 心強き人 岩をくだく波のような 僕の父親 3・秋を愛する人は 心深き人 愛を語るハイネのような 僕の恋人 4.冬を愛する人は 心広き人 根雪を溶かす大地のような 僕の母親 |
皆さん、ご存じだろうか?この歌ちょっと変なところがある。 1番と3番だ。 1番「スミレの花のような 僕の友だち」 3番「愛を語るハイネのような 僕の恋人」 どうだろうか? 1番 スミレ・・・友だち 3番 ハイネ・・・恋人 普通の考えられる組み合わせはこうだ。 1番 スミレ・・・恋人 3番 ハイネ・・・友だち 「四季の歌」は作詞・作曲の荒木氏が怪我で病院に入ったときに作った歌で(荒木さんは看護婦さんにとってもよく看病してもらったとのこと)、どうも荒木氏が始めから世に送った歌ではないようだ。しかしそれがあまり良い歌なので、看護婦さんらによって、歌い継いがれたということらしい。その途中においては作詞・作曲者が不明となっていたと聞く。 どうしたことかこの歌、歌い継がれていく途中で1番と3番の言葉の組み合わせが入れ変わってしまった。 荒木さんは、その後、この歌が多くの人に愛されているということを知るのだが、もう間違いの歌詞で、多くの人に歌われている、受け入れられている・・・・・ それでは・・・間違いのままいこう!ということになったらしい。 なにかほのぼのするいい話だ。 |
■■■岩鋳さん 近況 |
去年の暮れに岩鋳さんの担当者が近況について語ってくれました。 「12月、南部鉄器・岩鋳の所在地である盛岡市は、例年でいうと意外と積雪が少ない。東北からくるイメージの割には、10数センチ位の積雪。奥羽山脈に遮られ、雪はあまり降らない。しかし先月の12月は、80cmから1mほどの雪が積もった。もしかして観測史上最大の積雪かもしれない。岩鋳では観光部門があり、バスが何十台留められる大きな駐車場がある。その駐車場の半分以上は、除雪した雪の置き場となり、うずたかく雪が積みあげられ、駐車場としての機能は相当損なわれてしまった。もっともこんな雪では、お客様も来られないが。社員のみんなは、毎日雪かきに追われている。私も、毎日雪かきでヘトヘトだ。そして通勤も一大事。さらに困ることは、集荷のトラックが雪で遅れ、出荷が、たびたび夜の8時頃になってしまう。」 現在、盛岡市の雪は治まっていて、例年の状態に戻ったとのことです。 これからまだ、1年で一番寒い2月を迎えます。降雪量の多い地区にお住まいの皆様そして今回突然雪に見舞われた地区の方々、そのご苦労お察しします。どうぞ安全に十分ご注意下さい。 |
■■■ショパン ノクターン |
ショパン 夜想曲 変ホ長調 OP.9-2 この曲を聴いたことがないという人はまずおられないと思う。ショパンのノクターンと言えばこの曲。アメリカ映画「愛情物語」で使われ、一躍有名になったことから、「愛情物語」という曲名で覚えている方もおいでと思う。大変ポピュラリティーの高い曲だ。 小学5年の娘の弾くショパンのノクターンが毎日のように聞こえてくる。もう何十回聴いただろうか。もう思い入れたっぷりに、抑揚もしっかりついて、表情豊か。なかなか見事な出来映えだ。甘美で、切ない、感傷的な味わいをよく表現している。この曲、ポピュラー音楽などに編曲され、またゆったりとしたテンポの曲なので、ピアノを練習するものにとって、どちらかというと平易な曲と思っていたが、なかなかどうして難易度の高い曲だ。特に小学5年生にとっては難しい。 曲がある程度弾きこなせるようになるまで、プロの演奏は聴かせない。そうしないと楽譜から弾きこなすという大事な練習にならないし、またオリジナリティが養われない。でももういいだろうということで、娘とプロの演奏を聴いてみることにした。演奏者は中村紘子さん。CDを聴いてみてちょっと不思議なことに気づいた。曲が始まり主題を奏でる部分を淡々と、あまり飾り気なしに弾いているのだ。あまり歌っていない(すくなくとも私はそう感じた)。どうして?そうだ!この曲は、主題が中間部から後半部にかけては、装飾譜を多用して、幾重にも変化・変奏していく。最初の主題部分を単純にはっきりと浮かび上がらせて、その後押し寄せる波のような思いを表現する。その対比の妙がいいのだ。すべてに思い入れをいれると食傷気味になってしまう。中村紘子さんの演奏は情感と知性をよく調和させているのだ。 私は娘に言った。「最初は少し早めにして、単純に弾こう」。娘はそれを聴いて、すぐ実行してみた。 しかしその後どうも気にくわないようだった。 私「なにがパクリだ。パクリだって、中村紘子さんならいいではないか」 娘はその後、思い出したように、頭の部分を平坦に少し早めに演奏した。 ある日娘に聞いた。「先生、演奏についてなにか言った?」 娘は「曲を自分のものにしているって」 私は「それは最高のほめ言葉だ」と言った。 ほめられることを極端に嫌う娘は、その時ばかりは反抗ぽいことも言わず、ちょっとうれしさを隠すように、少し低めの声で、話を違う方にふって、平静に話し始めた。 |
■■■秋の風物詩 もみじ |
まっかだな まっかだな つたの葉っぱが まっかだな もみじの葉っぱも まっかだな しずむ夕日に 照らされて まっかなほっぺたの きみとぼく まっかな秋に かこまれている まっかな秋 薩摩 忠 作詞 小林秀雄 作曲 「きみ」「ぼく」 気持ちをこめて、はっきりと発音して、ちょっと深めな声で歌いたい。 |
■■■ゴールデンウィーク日記 東京タワーに登る | |
ゴールデンウィークとて、なんら特別の予定もない。しかしどこかへ行かなくては、ということで、近場の
東京タワーに着いてみると、エレベーターは長蛇の列。しかしよく見ると別の列が目に入った。係員に聞くと「階段組」とのこと。これだと待ち時間が少なくてすむらしい。意を決して、階段を選択した。階段の段数は600段。この数字がどれほどのものかは感覚的にまるで解らない。階段は外階段で、外気に直接触れられる。もちろん外の景色は、登りながら眺めることができる。これはいい。東京タワーの展望室へ階段で行くと聞くと、ちょっと恐ろしい気もするが、小さな子供が親に手を引かれて登っていく様子を見るにつけ、どうということはなさそうだ。高さの恐怖もアミを全面に厳重、頑丈に張ってあるのでそれほど感じない。実際登ってみて息もあまりあがらず、疲労感もそれほど感じない。しかしストレスの感じない心と裏腹に、目的のはっきりしているはずの足のはこびが、思うようにいかない。上を目指す心と足が一致しない。どうもちぐはぐだ。もしかしてマラソン選手の足が止まるって、こういうことなのかと訳の分からないことを考えた。しかし娘と女房は何でもないようだ。 無事3人ともリタイアもなく展望室に到着し、女房と娘は歓声を上げていた。ところで私といえば、あまり騒ぐ気にはならなかった。それは数年前、リレー競争に出場したことを思い出したからだ。足にはある程度自信があり、息も上がらず、楽勝と思いながら、ゴール寸前に自らが仕掛けた加速で、突如膝から崩れ落ち、肩からもんどりうって転げたことを思いだしからだった。 |
■■■休みの朝は | |||
僕は髪にブラシをかけることがほとんどない。しいてあるとすれば風呂から出たときぐらいだ。髪が柔らかく、クセっ毛なので収まりがいいこともある。だから整髪料も全く付けない。しかしさすが髪が伸びてくると、収拾がつかなくなり、毎日寝癖に悩まされることになる。そのうち耐えきれなくなり、床屋へいく決心をする。床屋へ行くのは休みの日の朝、一番早い時間帯と決まっている。 床屋の室内には、明るく、やわらかで、静かな光が差し込んでいる。それはどこか休みの日独特の光だ。先客がいるので、待合いの椅子に腰掛け、大好きな「サライ」の雑誌に目をとおす。見るのはほとんど食い物のページ。床屋行くのが1ヶ月と20日ぶりなのと、前回床屋へ行ったときは、待ち時間がなかったの 床屋から挨拶をして帰る時がいい。「ああさっぱりした。今日は風呂に入っても頭を洗わなくていい。最高だ。」心からの気持ちを伝え、店を後にする。床屋が終わるとスキップしたくなる気持ちだ。 髪をきれいにカットした日は、家の者との買い物など、休みの日の行事に同行することを比較的快く許可されるのだ。 |
|||
■■■冬の夜♪を歌う | |||
ここに「冬の夜」の楽譜がある。しみじみとした情緒あふれる私の大好きな作品だ。この歌難しい歌ではなく、小学校3年生ぐらいにもなれば、歌詞の理解は別として、十分歌える。しかし簡単な歌というものは、かっこつけるが難しい。上手に聴かせることの難しい歌だ。ところでこの歌の伴奏部を見てみた。この伴奏は、最後の詩の行を除き、一定の分散和音のパターンが少しずつ変化した単純な構成になっていた。これなら小学校4年の娘でも短時間に弾きこなすことができるだろうと考えた。娘の伴奏で歌う。私にとっては前から望んでいた夢。しかし練習嫌いの娘が伴奏してくれるはずがない。そこで取引をした。前からほしがっていた、カラーペンを奮発して5本買ってやるという条件だ。娘は伴奏をみてか、意外や一発で交渉成立となった。・・・・・・・娘は予想通り短時間で弾きこなした。そして私はテンポや若干の強弱を指示し、アンサンブルの開始となった。「むぅ いい気分だ!」ここは音楽教室ではない。我が家だ。我が家でピアノ伴奏と共に歌う。これは最高の気分だ。 その後、娘は伴奏をしてくれない。もうほしいペンを手に入れたからには、伴奏をする必要性はない。動機は不純でも、私としてこれを機に、アンサンブルの、伴奏することの楽しさ、日本的情緒溢れた作品への理解、興味を期待したのだが・・・やはり花より団子か!? 今私の一番歌いたい歌はカッチーニのアベマリア。実はこの伴奏を一番期待しているのだ。今の娘なら実力的にみて弾きこなせるはず。しかしこれを弾かせるには間違いなく大きな取引が必要になるだろう。クリスマスプレゼント級の要求を娘は提示してくるに違いない。 |
■■■ウェブマスターは裏方さん | |
お客様から私どもが見える部分というと、ホームページとメールです。では見えない部分というと、これは実にたくさんあります。取材やHP制作などです。そしてもっと地味で裏方的な仕事も多くあります。事務処理、在庫管理、仕入などがそうです。さらにシステム作りという仕事もあります。このシステム作りは、広い範囲で言うならば、業務全てがシステムという範疇にとして、捉えられるのですが、ここではハード的に捉えてみます。このシステムとは、たとえばネットワーク作りです。LANで複数のコンピューターやプリンター スキャナなどの付属機器を結びます。そして全てを共有して使えるようにします。これにより格段に効率が上がるようになります。 これらシステム作りはウェブマスターの仕事となります。そういことですので、ここちょっとの期間は、更新を最低限の範囲でしか行なえない状況となっています。新たな商品の展示はちょとお休みさせて頂いております。 どうもすいません。なんだか言い訳ぽくなってしまいました。 ウェブマスター |
■■■私の好きな詩 | |||
雨の日に見る 冬、ほのぐらい雨の日は 朱欒(ザボン)が輝く、 朱欒が・・・・・・・・・・・・・・・・ こ 街燈は、ぬれている、 泥靴は喘(あえ)いでいる、 風は雀をふっ飛ばしている、 人間の後姿はいそいでいる、 歌は絶えている、 電線はひきっている 枯木はふるえている、 わたしの身体(からだ)は凍(こご)えている わたしは祈りをわすれている、 そうして、わたしはただ見る、 ほのぐらい雨の影のなかに ぽっかり朱欒(ザボン)の浮かぶのを 輝くのを。 |
大木 惇夫の詩 多田武彦作曲 男声合唱組曲「雨」の第5曲として知られている。 この詩のモノトーンの、灰色に染まった世界の中で朱欒(ザボン)だけがくっきりと色づけされて、浮かび上がってくる。それは夢?祈り?救い?の対象、象徴なのか。 寂寥感、孤独感の漂う世界の中で、最後の「ぽっかり朱欒(ザボン)の浮かぶのを 輝くのを。」という一行にえもいわれぬ救いをみる。 ザボン=ミカン科の果樹またその実。暖かい地方に多い・・・実は黄色く大型でカボチャぐらいある。(広辞林) |
||
■■■NHK 大河ドラマ 新撰組 「完」 |
三谷幸喜脚本の「新撰組」が12月12日に最終回を迎えた。私は多分一回も見落とさずに全編とも見させて頂いたと思う。奇抜な仕掛けや新種の解釈などを出してくるかと思いきや、歴史ドラマとして正面から見据え、正攻法で取り組んだ姿勢に、少し驚かされた。ただいつもの三谷流のユーモアが随所に顔を見せた。 ドラマは、配役がとても新鮮で、歴史上の各人物が生き生きと描かれていた。そして「若い意気盛んな青年像」、「堅い意志と逡巡する心」「時代に翻弄される悲しさ」そんな姿を見事に表現していた。役者の皆さんは、新撰組を演じることを通して、役者さん同士、強い仲間意識が生まれたと、三谷氏は新聞に書いておられた。それは新撰組の一見強固な意志の裏に隠された、揺れ動く心、葛藤が、同世代として容易に理解でき、それらが共通の思いに繋がったからではないか。また新撰組の厳しい掟の裏には、どこか安寧の地と思ってしまう共同体のある種居心地の良さ、優しさが、脚本から、また演技を通して、役者さんにも伝わってきたからではないか。そんなことを思ってみた。ともかくドラマは、強い個性の役者さんが、歴史上の人物を表情豊かに演ずると共に、それ以上に「新撰組」という共同体を全員で、存在感と調和をもって、演じてくれたことに拍手を送りたい。きっと役者さんの回を重ねるごとに、新撰組になりきっていく疑似体験が、ダイレクトに、素直に、独りよがりでなく見ている人に熱く伝わったと思う。 近藤勇が斬首により処刑されることよりも、新鮮組が時代の流れとともに離散していく事の方が、なにか悲しさ、切なさを感じさせた。それはまぎれもない大河ドラマの終わり、新撰組になりきった役者さんの集まりの解散とオーバーラップした。 新撰組が歴史的に見て、近代日本の礎を築いていくのに、どう関わったか、その答えは見いだせないものの、後、国家育成の精神的支柱になったであろうことは、容易に想像できた。 |
■■■岩鋳 日経おとなのOFFに掲載される | |
岩鋳 南部鉄器の記事が「日経おとなのOFF 1月号」に大きく掲載された。掲載されたテーマ・見出しは、『ニューヨークのMoMAでも使われる南部鉄器のティーポット「曳舟」』。 雑誌ではMoMAについてこう書かれている。「MoMAといえば、近代美術や最新デザインが集まる最高峰の美術館。04年11月の改装に合わせ、カフェでも新しいティーポットを導入。それが南部鉄器の老舗、 この本にはこうも書かれている。「海外の先進各国の都市部では、根強い和ブームが続いている。そんな一端を象徴するように、ニューヨークのMoMA(ニューヨーク近代美術館)のカフェで取り入れられたという、ある一品をご紹介しよう。」南部鉄器の長い歴史に基づいた高い技術と鉄器が創り出す固有の造形美は、日本人の持つ美意識にとどまることなく、世界に向けて発信できる普遍的な美しさを有していると、最近強く感じている。現在HPにも書いているが、岩鋳の南部鉄器は、お膝元の日本を凌ぐ勢いで、欧米へ輸出されている。これは日本ブームのひとつの現象と捉えられるが、異国文化へのあこがれだけでない、本質的な南部鉄器の「美」を受け入れてくれたものだと思っている。 実は上記のティーポットはNHK総合でも最近紹介された。残念ながら公営放送であるので、岩鋳の名前はでなかったが、このティーポットにスポットが当たったようだ。このティーポット、斬新であり、近代美術と呼ぶに相応しい。しかしどこかノスタルジックな情緒的な世界も宿しているように見える。 MoMAに導入されるティーポット。便利さ、快適さを中心に考えると、ちょっと戸惑うかもしれない。ただオブジェとしてのまぶしい存在感はそんな思いを払拭する力を秘めている。 このティーポットはこちらに掲載さえています▲岩鋳急須 No3 |