過去のエッセイ1

お正月何が一番楽しいことかといえば、朝からお酒が飲めることだ。一年の中で胸を張ってこれができるのは、正月しかない。2日からの箱根駅伝を見ながら飲むお酒は最高だ。(もっとも箱根駅伝は、いつしかBGMの役目しかなさなくなるのだが。)ただ残念なことは、おせち料理が、きんぴらとかまぼこ、煮物ぐらいしか、食べるものがない。何かみんな甘すぎてだめだ。ところで我が家の雑煮は、やけに相当あっさりしている。なんと餅以外に小松菜と鳴門と椎茸しか入っていない。いろいろな人に聞いていみるが、我が家ほど具の入っていない雑煮はない。どうも他の人の食べている雑煮の方
が美味しそうである。京都の味噌仕立ての雑煮など食べてみたい。まあともかく郷土色あふれた雑煮の話は楽しいものだ。(しかし僕は餅があまり好きでない。1日1ヶ以上は食べない。その代わり雑煮を食った後にまた米の飯を食う。)
 そうこうしているうちにいい気持ちになったら、昼寝をする。そしてどこのテレビ局も似たり寄ったりというバラエティー番組をみる。「どうして正月って、つまらないものばかりやっているの」といいながらも、正月が明けて、通常のペースの番組に戻ると一抹の寂しさが残るのも変だ。 、
 正月は、現代人が絶対従わなければならないニュートン力学の絶対時間の支配から離れて、勝手気ままに時間を使おう。とはいうものの去年の正月は、ホームページの開設の準備で、正月中キーボードを叩いていた。きっと今回も日頃の遅れを取り戻そうと、きっとやるだろう。
                                                M、M
絶対音感?
小学校1年の娘と中学3年の息子そしてママと私でピアノの音当てクイズをした。ただ単純にピアノの鍵盤を叩いて音を当てるのだ。オクターブも広くとって叩いた。結果は、娘を除いて惨敗。娘は十数回の問題を全て当てた。最高音から最低音に渡ってすべて正解だった。ついでに音を覚えていると思い時間をおいて、「ド」の音を出させてみた。みごとに未成熟な声帯が「ド」の音をを発声した。皆あっけにとられた。どうしてできるのだろう。私はまだ信じられなくて、数時間後再度娘に挑戦させた。やはりみごと「ド」を発声した。これって絶対音階?その後たまたま私、歌のスクールに通っう日だったので、二期会の声楽の先生に聞いてみた。先生は、「絶対音階の持ち主は、雑音を聴いてもその音が例えばソの#とかを即聞き取る能力」とおっしゃった。それって、上記に書いたことの延長線上にあって、時間を経てそうなるのか?それとも上記に書いたことは、ピアノを勉強した人にとってあたりまえのことか?いつも音取りに苦戦している私には解らない。以前「絶対音階」が本になり、話題になった。「絶対」という言葉には魔力がある。しかし音楽は移動する音階の幅を正確に把握する事が重要であって、また技術と表現力が重要と思うのだが、でもうらやましい。
大人になって、ふと子供の頃に遊んだ場所を訪れてみると、その空間が驚くほど小さく狭いことに驚かされることがある。それは大人と比べて物理的に小さな子供が、空間、外界を相対的に大きく見るからだろうか?それだけではないように思う。
 時間も大人と子供では違う流れ方をする。子供の頃の時間はゆっくり流れ、24時間が何倍も長かったと思う。どうして?全てに未知のことが多い子供は、外からの刺激、自らの好奇心に触発されて、日々多くのことを自然に吸収し尽くそうとする。それにより密度の高い時間が生まれるからか?もっとも大人にしても時計の針のように時間は一定には流れていないが。
 こんな事を聞いたか読んだことがある。「いろいろな楽しい出来事がある時は、時間あっというまに過ぎ去る。しかしいやなことがあるときは、時間が長い。だが後で振り返ってみると、思い出として多くを残した時間が、長い時間として認識される」と。
 ともかく心で感じる時間は一定には過ぎていかない。もっとゆっくりと思う人。早く過ぎ去ればと思う人。どちらにせよ時間は間違いなく過ぎる。そんな中で日常ささやかな行動をもっと大事にと思う。だって人生では、平凡で、ささやかな時間が最も長いのだから。
これを家族に読ませたらきっとこう言う。「みんなを一度も旅行に連れて行かないパパの屁理屈だ」と。
ぜひ見て頂きたいまた聴いていただきたいサイトがあります。...クリスマス・キャロル
私はクリスチャンではありませんし、また信心深くもありません。しかしクリスマスソング、聖歌、賛美歌が大好きです。クリスマスソングは、小学1年の娘が繰り返しCDを聞き返していますが、きっと小さな
娘と同じ思い、同じ聴き方で、私も聞いているのだと思います。二人とも大好きなのです。時には、二人で勝手な振り付けで踊り出す始末です。賛美歌は時に私も唱うのですが、宗教心のない私でもいつしか敬虔な気持ちにさせてくれます。そんな私が、偶然「クリスマス・キャロル」というサイトに遭遇しました。ページのオープンとともに厳かな音楽が流れ、深みのある色合いの中に宗教絵画が浮かび上がります。それだけで胸がいっぱいになります。そしてものすごい数のMIDIの音楽が、私たちを出迎えてくれます。その曲の原詩に始まり、その曲に関する話題、ページに挿入されている絵画、その曲への投稿を楽しみながら心豊かに時を過ごせます。クラシックのみならずポピュラーもあります。ものすごく奥行きが深く、野上絢さん I、Yさんら制作スタッフのみなさんの努力が偲ばれます。まだまだ紹介したいことが多くあるのですが、それはどうか訪問してお確かめ下さい。このサイトに滞在していると、なにかゴシック建築の教会にたたずんでいるような気持ちにさせてくれます。
どうかご家族でごいっしょに小さい旅をお楽しみ下さい。
                                  M、M

クリスマス・キャロル(残念ながら閉鎖されてしまいました。)
12月7日 仕事を終えての帰りの経路は、車で山形長井市から米沢を抜け郡山へ。郡山から先はいつも利用している新幹線で東京まで向かう。車で米沢から福島へでるには、栗子峠を越えなくてはいけない。米沢へ入り峠へ向かう途中より雪が降り出した。今年見る初めての雪だ。米沢はかなり
の豪雪地帯だ。栗子峠の道路の両サイドは、これから雪の高い壁が自然の力と人間の除雪の共同作業で築かれていく。途中にスキー場が数ヶ所有り、ゲレンデは、一面真っ白に染まっているが、オープンまでにはまだ少しかかりそう。豪雪地帯に住んでおられる方には、誠に申し訳ないが、都会育ちの私にとって、街をモノトーンと静寂に仕上げてくれる雪は天からの贈り物に感じる。
家族が一部屋のこたつに集い、時折窓を開けて雪の状況を確認する。降りしきる雪を見て「困った 困った」と言いながらあまり困っていない。たしかシュティフターという作家の「水晶」という短編があった。風のない晩に雪が垂直に舞い落ちてくるシーンのあまりにも美しい宗教的なくだりを思い出した。
 私は美しい街並みの水彩画を描くのが好きだが、雪景色がぜんぜん描けない。白という色であり色でない純粋無垢の反射の現象は、筆にとってあまりに難しい。
ちょっと遅くおきた朝は
仕事が休みの朝、ゆっくり新聞を読み遅い朝食をとる。ごはん、納豆、玉子焼き、ぬか漬けのおしんこ、塩ふいた脂ののった塩鮭、海苔 いつも休みの日の朝の朝食は決まっている。そして玉子焼きは、私が必ずつくる。一般には砂糖、みりんを入れて作るのだろうが私の場合は、絶対に醤油のみだ。砂糖は絶対に入れない。これは子供の頃からの環境からそうなった。砂糖を入れるとお菓子みたいで嫌いだ。鉄のフライパンをよく熱して、油を入れる。テフロンと違って、サーッと油が鉄にしみ込むように馴染んでいく。これが好きだ。私の玉子焼きは、中がふんわりと、そして生のような卵の黄身が流れ出さない、出来映えのいい玉子焼きだ。かなり練習した賜だ。(テフロンでは私はできない) 子供の評判はいたって良い。私の玉子焼きが出来上がると、即朝食になる。そういう風に段取りしてある。
 ともかく腹の減った時の朝ご飯は、最高においしい。どんなディナーにも負けない。私は、ちょっと遅くおきた時の朝ご飯が、一番好きだ。
今日(11月18日)、小学校の学芸会を見に行った。1年生から6年生まで全て見てしまった。すぐに娘だけ見て帰るつもりだったのだが、そうはいかなかった。正直心惹かれてしまった。すべて良かった。その中で6年生の歌を伴った劇は圧巻だった。少年の唱う透き通った声の無伴奏のアリア。(途中に拍手が起こる演技だった。)大らかで語尾のはっきりした発声の少女の演技。悪と正義の歌が、ぶつかり合う合唱。(それがまるでバッハのカノンのように聞こえた。)「悪にうち勝つためには皆さんの歌声を」と父母達の参加まで求めた演出だった。「君の手と僕の手を かたく握り 分けあおう 僕たちのこころのぬくもりを♪」。(私も唱った。ちょっと恥ずかしいので、できるだけ太い柔らかい声で唱った。ちょっと涙腺がゆるんでしまった。)もちろん荒削り、稚拙の演技なのだが、会場は静まりかえり、観客の心を捉え、だれもが子供達の内なる才能を感じた。どうしてお決まりの学芸会が、こんなにも感動を与えたのか?きっと子供達が心の中に素敵な動機付けを見つけたのではないか?そして子供達は、私たちの大人のように始めからこれは無理だという困難な枠からの出発点の中には生きていないからではないか?。それは私たち大人の範疇だ。テーマを与えのびのびと表現する場を与え、寛大で適切な助言をもって指導すれば、予想以上の力を発揮するのだ。たぶん先生方の指導も良かったのだと思う。
 今子供達の行動及び精神、情緒的荒廃が叫ばれている昨今、この演技を見て私はほっとした。
                                             M、M
追記:劇の名前は「魔法を捨てたマジョリン」です。
 
あの大阪のハリウッド映画テーマーパーク・ユニバーサル・スタジオ・ジャパンに行って来ました。ディズニーランドにも行ったことのない僕としては、こういうところに行くのは、初めての体験だったのです。アトラクションがすごいのはテレビを見て解っていたのですが、再現された街の綺麗さ、華やかさには驚かされました。ただ歩いているだけで楽しいのですね。遠くに見える工場群がなければ、完全に異国ですね。流れてくる音楽も気分を盛り上げていて、胸躍る気分にさせてくれます。ただアトラクションの待ち時間には、閉口します。何をしても楽しい恋人同士などは、いいでしょうが、小さい子供連れは、苦痛のなにものでもないでしょう。どうもこのテーマーパークは、大人向けかなと思いました。
 テーマーパークを歩いていて、即感じたことは、日本は、本当に不景気なのかな?ということ。人だかりのすごいこと、遠くからの高い運賃、宿泊費、入場料などかけて来る人が大勢いるのでしょう。でもこういう個人消費が、これからは、景気を持ち上げてくれる大事な原動力になるのかなとも思った次第です。
 貧乏性の僕は、やたらホームページの更新が気になってしまいましたが。
                                     M、M
スローフードで
小学1年生の娘と一緒に某有名なハンバーガーショップへ休みの日に行った。お客は結構並んでいた。お店の忙しさは相当なもので、厨房の中は戦争だ。娘は、店で食べたいというので、一番奥の空いた席を見つけ、2人で座った。店の中を見ると若いお母さんが断然多い。しかし初めは美味しいと感じるのだが、途中で飽きる。絶対2個食べたいとは思わない。ハンバーガーやホットドッグをいつも食している
国の人がかわいそうになる。この日はファーストフードのことを真剣に考えてしまった。どうしょう 日本の子供達が皆このハンバーガーが一番好きと言うようになったら。どうしょう 日本の伝統食が将来なくなってしまったら。
そしてホームページのTOPにスローフードの奨めの記載をいれてしまった。
テレビを見ていたら、中華鍋の特集をしていた。そして見ていくうちに、あの不安定な半球体の分けを知った。自分のところで販売しておきながら、自分で調理しておきながら、ちょっと情けない気がするが、ちょっとご紹介すると。まずあの球体のスロープが、「中に入れた素材をかき混ぜやすくしている」。そう言えばその通りだ。でもこんな簡単なことを言葉にできなかった。もうひとつはあの外側のスロープが、下からの火、熱を「その側にそって上の縁まで無駄なく伝えてる」のだ。それにより全体に熱を行き渡らせ、うま味を封じ込めているのだ。封じ込めるのは、当然解っていたが、スロープと熱の関係より鉄という素材にばかり目がいってしまった。しかし改めて長い歴史が培ってきた、生き延びてきた、あの半球体のすごさを感じた。。
 
テレビでは、チャーハンを「フライパン」と「中華鍋」で作り、味を比較する実験を行っていた。結果は、中華鍋という当然の結果になったのだが、フライパンがテフロンであったことは、問題だと思った。テフロンは強火には、向かないし、金属へらで強くかき混ぜられない。これはどう見ても、最初から勝負ありだ。 もちろん中華鍋の球体の形状が、じゃまをする料理もあるが、その半球体が料理によってすばらしい威力を発揮するのは間違いない。
ぼくは、少年時代の一時期を東京の下町(人形町)ですごした。商店街の通りに面した住まいで、肉屋と乾物屋にはさまれていた。通りの裏は、行き止まりのかなり狭い路地になっていて、小さな空間が、みんなの専用の社交場になっていた。「猫が屋根から落ちた。着地できなかった」などとたわいもないことを皆で集まってしゃべってる。ぼくが階段から転げ落ちると、音を聞きつけ、助けに来てくれる。コロッケのできたてを、紙に包んで手渡してくれる。そんなとこだった。裏戸はみんな開け放しなので、となりのことは、筒抜けだった。ぼくは表通りをほとんど覚えていない。この路地裏の記憶しかない
のだ。このころの生活は、今思うと不便なことだらけだったと思う。お豆腐を買うのに、鍋を持ってでかけた。総菜は、殆ど木を薄くスライスしたものに包み、量り売りしていた。しかし不便な中に会話があった。なにか町の中に包まれている気がした。
社会は「便利」に向けて進むことを余儀なくされているが、それは人を忙しさへとさらに押しやる。でもしかたない。でも生活のささやかな過程を意識して楽しむことはできるはずだ。
コンビニのおにぎり
コンビニのおにぎりが、テーブルに数個置かれていた。「うめ」のシールが貼ってあった。ひとつ失敬して食った。それがうまい。こんなにうまいのか?コンビニのおにぎりもたいした物だ。.....
後で解ったことだが、コンビニ用のフイルムが売っていて、それを買って、我が家で作ったことが後で判明した。(コンビニのおにぎりの様になる)道理で親近感のある味だ?コンビニの弁当は、子供にとって楽しいものだ。いつも母親の作った物を食っているから、そういう弁当は、逆に新鮮に感じるのだろう。また今の世、母親の弁当を堂々と広げるのは照れることも若干あるのかもしれない?解らないでもない。市販のフイルムを使うと味が我が家で、海苔がぱりぱり感を味わえる。そしてコンビニの弁当のよう。なんとなく理解できる。話は変わるが、中三の息子が言った。今日のおにぎりは、塩っけが足りないと。サランラップで握っているから(衛生のため)塩が米に馴染まないのだと。だから素手で握れと。これは本当の話だ。コンビニの弁当がいいと言いながら、不思議に思った。しかし変に納得してしまった。
                        M、M
秋が好き 秋が好きだ。心が内側に向かっていく季節だ。本を読んだり思索にふけったりするのにいい季節だ。私の場合とんと野外で活発に動く趣味に興味がない。なんでもやれば楽しいのは解っているのだが、面倒なのだ。それより歌を唄ったり、絵を書いたり、文章を作ったりするのが、ずっと性に合っている。こういう性格を心理学的に内向的と言う。内向的というと「根暗」(ねくら)と思われるだろうが、それは違う。私は体育会系の出だし、酒好きのおしゃべりだ。要するに興味、関心、冒険が心の方へ、内側へと向かうのだ。そう言うわけで秋は、春よりずっといい。春は外に気持ちが行って落ち着かなくなる。だから嫌いだ。
 今あの「里の秋」を聞いている。実に名曲だ。何回聞いても飽きない。こういう曲を聴いて感傷にふけるのは、悪くない。時に鳥
肌が立つ。これを書き終えたら唄おうと!

「ああ父さんよ ごぶじでと 
             今夜も母さんと 祈ります♪」
                         M、M



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