いつか どこかで 宮崎 駿監督の作品について

 久しぶりにCDを買った。なんのCDかというと、あの「千と千尋の神隠し」の映画のサウンドトラック。久石 譲氏の音楽は、メロディーが美しく大好きなのだが、今回特に聴きたかったのは、あのテーマーソングになっている木村 弓が歌う「いつも 何度でも」だ。テレビで聞くたびにどうしてもほしくなり暑い中、デパートまで出向き買い求めた。透明感のある柔らかいリリックな声、郷愁を誘う美しいメロディー、こころにしみる詩。酔いしれて何度も聞いた。私も歌詞カードを見ながら歌ってみたが、フレーヂングが難しくスコアがなければとても歌えない。あきらめた。しかしともかく美しい。この歌から更に映画を見たい要求に駆られた。
 
 私はアニメファンではない。しかしスタジオジブリの映画のビデオは、ほとんど持っている。もちろん子供のために購入したのだが、子供の映画として扱ったらもったいない。否、逆に大人のアニメだと思っている。どうしてそんなに心惹かれるのだろう。?それは私にとって映画の「風景」が「いつか どこかで」見た風景が散りばめられているからではないかと思っている。
 私は歩くのが大好きで、平気で2時間でもく歩く。なぜ好きかと言えば、その途中、路地裏などに思わぬ風景を見ることがあるからだ。そうだ「いつか どこかで」見た風景。偶然が作り出したアンバランスの中に不思議な調和をもった風景。「いつか どこかで」とは、子供のころからの居心地の良い、自分にとって美しい調和のとれた風景が、脳細胞に刻まれ、心の中で更に洗練され、心象の風景として心に仕舞われたものだ。歩いているとふとそれが呼び出されるのだ。
 
 宮崎 駿の作品には、「いつか どこかで」の風景が至る所に現れる。今回の「千と千尋の神隠し」の映画のコマーシャルを見るだけでも至る所にある。例えば戦後の和式の住宅に洋風の部屋を増築した建築の中に、ビックリするような美しさが生み出される。子供心に美しいと思っていた。またそういう中で私は遊んでいた。ブロック塀はなく、木の垣根。それが一直線に町を飾っていた。家と家は裏で結ばれ自由に行き来できた。まだ私の住んでいる町の中にはかなりそういう住宅が残っている。そういう建物を宮崎 駿監督の作品に発見する。良き日本のイメージ、後生に残したい日本、そういうものが相まって私にとって居心地の良い世界を提供してくれる。それは外国ロケ地にした場合、未来を描いた場合にも同じだ。(余談だが未来で思うのだが乗り物などどう見ても不合理に作られている。飛行船、羽がプロペラの様な飛行機。)
  
 宮崎 駿監督の作品は、色が美しい。これにはだれもが反応してしまう。奇抜でどこかなつかしいような造形美がたまらない。いったいどうしてこのようなことができるのか。ストーリーが楽しい。幼児からお年寄りまで鑑賞できる。極めつけに健全。とはいえ押しつけがましくない。そして日本人としての「良心」が根底に流れている。これにはまいってしまう。天才と良心。「いつか どこかで」の風景は天才と良心がなければけっして生まれない。
 
 ところでこの映画いつ見に行こう。見たらまた始まるだろう。わたしの能書き評論家の血が騒ぎ、解説が始まり、家族は迷惑するだろう
                                       M、M