過去のエッセイ7

コオロギ
リビングのソファーの上に置いてある自分のかばんの脇に、虫を見つけた娘は、大きな声を上げて恐怖で後ろに退いた。それに反応した家内は虫の存在を確認して、殺虫剤を取り出してきた。私はその実態を知るべく虫に近づいた。・・・「ええっ!」 その虫は「コオロギ」だった。子供のコオロギなのか小さくて可愛らしい。
「これはコオロギだ。庭に逃がしてあげなよ。どうしてコオロギを殺すのよ」と私。「だってゴキブリだと思ったから。間違いなくゴキブリに似ている」と家内。・・・誰が見てもこれはコオロギなのである。まったくコオロギもわからないのか。このふたり。・・・・・最後は、娘曰く。「まったく空気が読めないのだから」。 ちなみに、この『空気が読めない』の主語は、突然出現したコオロギである。そして娘は二十歳である。


宮崎駿監督の最高傑作 「風立ちぬ」
「風立ちぬ」は、宮崎アニメの最高傑作である。

 関東大震災、恐慌、戦争と物語の時代背景は劇的であるが、物語自体は、そう突飛な事件などはなく、奇想天外な場面もほとんどない。二郎が夢に向かっていく姿を淡々と描いていく。物語はかなり地味に進行していく。(この映画の評価が分かれる原因がここにあることは、十分に予想できる。)

 この映画を見終わり、最初に脳裏に浮かんだことは、「リアリズム」という言葉である。メッセージ性を極力隠蔽(いんぺい)し、物語は静かに進行していく。写実的であることで物語に現実性、真実味をもたらす。アニメには珍しい手法である。しかし、生身の人間が演じればできるでろう細やかな表現は、アニメにはやはり無理があろう。そこで登場するのが「夢」である。白昼夢と呼ぶのがふさわしい。これにより二郎の胸の内が表出される。アニメにおけるリアリズムの限界を、「夢」が補っている。ここに作品の構成の妙がある。またそこで、宮崎アニメの持ち味である、のびやかな「自由な空間」も展開される。ファンにとってホッとするシーンかもしれない。リアリズムとは相反するかもしれないが、この映画全体に漂うリリシズム(叙情性)に魅せられる。どの場面にも、一貫した「ある心地よい情緒」が保たれている。それは良質なロマン派の音楽のようである。純度の高い詩情。この映画の最も好きなところだ。

  「この映画は、何を訴えているの?」と私たちはよく考える。作者の主義主張を見いだしたいもの。しかしこの映画に関して、それを追求することは少々窮屈だ。どうも作者は、信念めいたものを押しつけることなく、思いを読者にゆだねているのではないかと私は思っている。主人公の生き様を伝える伝記のようなものと捉えるよりも、主人公の生活、人生に寄り添って、いっしょに喜怒哀楽の世界に(二郎はあまり感情を前に出すタイプではないが)ひたることの方が、より深く映画を味わえる。すると二郎の生き様が見えてくる。生き様は真偽や善悪ではない。

  「エンターテインメント」や「ファンタジー」そして「明確なテーマ性」は共感を得やすい。しかし写実的な映画は、一歩間違えれば、冗長で、退屈そのものになる。ましてや「風立ちぬ」はアニメである。表現には相当の苦労があったに違いない。「風立ちぬ」は、写実的で、その構成が頑強に組み立てられ、そして緻密だ。二郎という人間の姿も冷静に丁寧に描かている。芸術性の高い交響曲を聴くようである。骨太の構成と丁寧な作りは、この映画に強い説得力を与えている。説得力は映画を楽しむ上で、とても重要なのだ。そしてそれは傑作と呼ぶに相応しい作品の大きな要素になっている。

 この映画での菜穂子との恋愛のシーンは時間にして意外と短い。恋愛映画と思ってみると物足りないかもしれない。しかし、露出はすくないものの、二郎と菜穂子との場面は、極めて、重要である。凝縮された中核をなすシーンであり、そして美しくやるせない恋愛シーンである。それは、二郎という人間を理解するうえでも極めて重要である。ここではできるだけストーリーに触れないように留意したが、ひとつだけお話ししたい。それは結婚式(たった4人の)のシーンだ。菜穂子が美しい。美しすぎる。息をのむ美しさだ。もうこれをみただけで映画にきてよかっと思うぐらいだ。しかし、この世のものと思えない、幻想的でどこか深い悲しみをたたえている。まるでこれからの二人の別れを暗示しているようだ。私は思わず菜穂子の姿を見て、「死に化粧」を連想してしまった。映画が終了した後も、ずっと余韻を引きずる場面である。



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